ポーラのスープ

他の誰かにとってはガラクタのように見えても、自分にとっては大切で、どうしても捨てられないものがある。どうして必要なの、と聞かれてもうまく言葉にならない。例えば、小学校の頃、学校の先生が「身の回りにあるもので創作をしよう」という課題を出した時、私は地区にある防空壕に行き、そこで綺麗なガラスの欠片をいくつも集めて何かを作った。そして課題の展示が終わった後は、ばらばらにして箱に入れて閉まっていた。それらは深く透き通った、淡い青や赤のガラスたちだった。ある時、その箱が母の目に留まり、必要かどうか聞かれ、捨てないで、と言った。どうして必要か聞かれたのだが、必要な理由が分からなかった。大切なものは、いつだってうまく言葉にならない、そういうものだ。

   

旅の行き先は、いつも直感で決めた。ポルトガルを選んだのは、街に巡る細い坂道に惹かれたことと、いい音楽に出逢える気がしたから。そんなぼんやりした理由だった。私はここで、忘れられないスープに出逢った。

   

ポルトガル中部にあるリトリートセンターに住み込みボランティアの申し込みをしたのは、2018年春のこと。インターネット上の掲示板で求人情報を探していた時、ある女性の写真に目が留まった。50代くらいだろうか、目尻と頬に柔らかいたくさんの皺が刻まれていて、その笑顔は優しかった。通常、1ヶ月以上の稼働というのが受入の条件だったが、「2週間と少しの日数でもよければぜひ働かせてほしい」とメッセージを送ると、翌日「very welcome」と返事があった。こうなれば腹を括るしかなく、「きっと良い出逢いがある」と言い聞かせて準備を始めるのだ。

   

絶望から始まった私の旅は、3週間ほどのスペイン滞在で、一握りの希望へと変わっていた。ポルトガル北部ポルト空港のロビーで夜を明かし、翌朝の便でリスボンへ向かう。真夜中の空港のカフェで冷えたエッグタルトとコーヒーを買って、テーブルの上でうとうとと、常に夢と現実の狭間にいるような感覚だった。

空港に到着してすぐにインフォメーションに行き、シントラ・エリセイラへの道のりを尋ねた。空港から地下鉄と列車を2時間ほど乗り継ぎ、そこから民営バスに乗り換える。WiFiを持たなかったため、最終目的地のバス停に到着するまでの3時間、10人以上に道を尋ね、寝過ごさないように鼻歌を口ずさみ、目をこじ開けていた。

列車への乗り換え駅。翼のような設計がとても明るく気持ちがいい。(上)

列車の中は様々な言語が飛び交っていた。ここではポルトガル語が公用語、スペイン語も話されている。メモを見せながら、片言のスペイン語で話しかけた。(下)

降り立ったのは、広大な草原の中に1件のカフェと小さなレストランのある、空が広く、風が心地よい場所だった。バス停側のカフェにWiFiを借りて連絡すると、まもなくして現れたのは、ジブリのハウルの動く城に出てくるソフィーおば様のような、白髪の三つ編みが可愛らしい女性。彼女は「改めて、ポーラよ。よろしくね」と言うと、少し痛いくらいぎゅっと抱きしめてくれた。彼女の赤い小さな車に乗り込むと、ガタガタとした揺れと少し空いた窓から入る風が気持ちよくて、多分少し寝てしまっていたと思う。

小高い丘の上に、ねずみ色の建物が見えてきた。30人は一度に泊まれそうな大きさ。ここがポーラが営むリトリートセンターだった。緑溢れる庭には、大小の石や木が多く配置されており、小道沿いには小さな花が咲いていて、奥にはヨガを教えている赤い小屋があった。この小屋の中がとっても可愛らしくて、時々窓の外から中を覗き見るのが楽しみだった。

ペンションの1階には、ポーラの旦那さんとお母さんの2人が住んでいて、ここで受付などの業務も行なっているという。

ペンションの裏側にまわり、小さな家の扉を開け、ポーラと一緒にギシギシと鳴る階段を上る。「私の子供たちが使っていた部屋よ。滞在中はここを使ってね」と案内されたのは、木の香りのする6畳ほどの屋根裏部屋。ベッド脇にある古いランプ、キルトの寝具、馬のぬいぐるみ、どれも誰かに愛された跡が感じられた。

小窓を開けてベッドに腰掛けてふうっとひと息つくと、鳥の声しか聴こえてこない。ポルトガルの田舎町に来たんだという実感がようやく湧いてきた。教えてもらったWiFiがほとんど繋がらなかったこと、キッチン脇の暖炉などが、その実感をさらに強くしたのだった。

「Tomoko!」と、ポーラから名前を呼ばれ1階に降りると、ポーラがキッチンでスープを温めていた。

「スープを作ったから、一緒に食べましょう」

庭で育てたオーガニックほうれん草と玉葱を使ったスープ。深い緑色とハーブ(おそらく、レモングラスやオレガノなんかだったと思う)の香りにすっかり食欲をそそられ、空っぽの胃へとあっという間に消えていった。

   

ポーラの生活は、最低限の電力とガスを利用し、それ以外は自給自足。センターや家だって自分たちで建てたそうだ。徹底されたビーガン食のお蔭か、大きな病気はしたことがなく、5人の子どもを育ててきたという。一番下のお子さんは大学生というから驚いた。そんなポーラは、当初メールでやり取りをしていた頃に比べ、ずっと口数が少ない人だった。その理由は、最終日にようやく分かったのだが。

ポーラは私を手招きし、ハンドメイドの大判キルトで私の足元をぐるっと包み、右手でグーサインをすると、すぐ仕事に戻っていった。

     

その日から、朝食も、昼食も、夕食も、必ずスープが付いてきた。朝食は、フルーツが入った温かいオートミールと、人参のスープ。昼食は、根菜とお芋の具沢山スープ。夕食は、ほうれん草のスープ。だいたいそんなサイクルである。味のないオートミールは、熱々のうちが一番美味しい。時間が経ってしまうと、急に美味しくなくなって、なかなか喉を通らなくなる。いつも急いで平らげた。

私の仕事は、主にセンターの庭の雑草取りだった。朝7時から8時の間、1階に降りるとキッチンに朝食が用意されていて、食事と食器洗いを済ませて仕事に取り掛かる(先に書いた理由から、なるべく冷めないうちにいただくようにしていた)。休憩を挟んで、毎日1日5時間ほど働き、土日はお休み。そんなに辛い仕事ではなかった。お天道様が照り付けるとすぐに汗が出て疲れは増したが、天道虫や見たこともない昆虫がひょっこり顔を出してくれて、沖縄の民謡なんかを歌いながら、案外楽しい時間に思えた。

カザフスタン人のガーラという女の子がいた7日間は、仕事が終わるとセンターから10分ほど歩いた場所にある海岸のカフェに行き、ビールとチョコレートパンを楽しんだ。天気が悪いと波が高くなり、潮風で窓が少しだけ曇る。その様子を眺めているのが好きだった。1つ年上のガーラは、旅の中でたくさんの恋を経験してきていて、話が尽きなかった。

でも、そんな彼女が去った後は、忙しいポーラと少し言葉を交わす他は、話し相手がいなくなった。数回、一人でカフェに行ってみたものの、次第に、寂しさが心を蝕んでいき、夜、枕元のランプを消すのも怖くなった。この灯りを消して起きたら、旅を始める前の自分に戻っている気がした。「消えてしまえ」「プロジェクトを降りてくれ」そんな夢にうなされて起きたこともあった。16回の孤独な夜を越えられたのは、ポーラが毎日作ってくれたスープのおかげだった。

       

ただ一度だけ、ポーラに大きな声で叱られたことがあった。抜いてはいけない草を抜いてしまったからだった。ポーラが3年ほど前に植えた根張り草(はっきりとした名前は分からなかった)を、雑草だと勘違いしてしまい、ほとんど引っこ抜いてしまった。私の作業を見にきたポーラは、持っていたスコップを落とし、真っ青な顔をして「Stop!!」と叫んだ。ポーラの青い顔はたちまち赤くなり、雑草置き場に草を取りにいき、少し涙を浮かべながら植え直していた。私は動揺し、何度も謝りながら、ポーラが持ってきた草を一緒に植え直した。涙を浮かべるなんて、よほど大切なものだったに違いない。分からなかったとはいえ、なんてことをしてしまったんだろう。ついに居場所がなくなってしまった気がした。

      

その日の夜は、いつもより冷え込み、風が強かったのを覚えている。カフェには行かず、ひどく落ち込んで部屋に戻る私を見て、ポーラは夕食には少し早い時間にスープを持ってきてくれた。暖炉に薪を焚べ、テーブルに向かい合わせに座ってスープを口に運ぶ。その優しい味に心の蟠りが解けていくようで、涙が睫毛に重く溢れてくる。

   

改めてポーラに謝った。ポーラは、キッチン脇に置いていた私のスーツケースに入った小さな三線(旅行用の、ウクレレに近いサイズのもの)を指差し、「弾いてみてほしい」と言った。暖炉のパチパチという音に三線の乾いた音が重なり、そこに優しい笑顔で聴いてくれるポーラがいる。その夜は、ランプに描かれたピエロの模様も、灯りを消した後に部屋に差し込む橙色の月明かりも、全部味方になってくれた気がして、初めてよく眠れた気がした。

それから幾つかの朝と夜を迎え、最後の朝食は玉葱と南瓜のキッシュ、それにトマトと胡瓜のマリネだった。ポーラとびきりのご馳走。これまでよりずっとゆっくりと、口に運んだ。これ一つでお腹いっぱいになるほど具沢山で、とても美味しかった。

朝の仕事を終えてから、荷物いっぱいのスーツケースをどうにか閉じ、部屋の掃除を済ませてからキッチンにいくと、三つ編み姿のいつものポーラが笑顔で座っている。私は、日本から持ってきたメモ帳にメッセージをもらいたいとポーラに頼んだ。はいどうぞ、と戻ってきたメモにはポルトガル語が書かれていたので、どんな内容かを聞くと、「あとで調べてね」と言われた。

ここで初めて知ったのだが、ポーラは英語がほとんど話せないそうだ。センターを営むのに必要な最低限の英語だけどうにか扱えるそうだが、メールでのやり取りはGoogle翻訳を使っているとのことだった。無口に感じたのは、そういう理由だった。致命的なミスもしてしまって嫌われていると思っていたので、ほっとして腰が抜けた。目の前にいたのは、シャイで料理上手なソフィーおば様だった。世界中の争いは、小さな誤解から生まれ増幅されているんじゃないかと、改めて考えてしまう。

    

一つ心残りなのは、毎日出てきたスープの写真が残っていないこと。他の写真はたくさんあるのにね。毎日必ず食卓に出てきていたから、こんなに特別になるなんて思わなかった。帰国してから友達に話すと、うまく言葉にならなかった。大切なものは、いつだってこうなる。

   
ポーラのスープ。不安や寂しささえも、サラサラと溶かしてくれたスープ。それは紛れのない、魔法のスープだった。もう一度会えたなら、作り方を教えてほしいと言ってみよう。
ありがとう、ポーラ。

Spring, 2018

Blue Empathy

自然と、人と。 深く連れ合いながら、時に訝しみながら。 一筋の共感を、共に生きる力へ変えていくことに心を注いでいます。 ここでは、自身の取り組みのこと、また世界を旅しながら出逢った景色や、現象や、人を通じて感じたことを気ままに記していこうと思います。

0コメント

  • 1000 / 1000