私の目指す世界
「ちょっとこれ余ったけん、ともちゃん食べんかね」
そういって、隣の一人暮らしのお婆ちゃんが炒ったお豆を持ってくる。
「ばあちゃん、ありがと!最近、不便なことはなかかな?」
「電気がつかんくなったのよ。見てくれんね?」
「すぐ行くけん、ちょっと待っといてね」
そんな、当たり前の会話。
田舎だと、普通にあった。
東京に暮らしていた13年間は、一度もなかった。
携帯電話ひとつを例にとっても、凄まじいスピードで世界が動いている。
ぼうっとしていたら、取り残されてしまう。
世界は情報で動いている。自分で取りにいかないと。
東京で暮らしていた頃、そんな焦りがあった。
日々、会社帰りにたくさんのコミュニティに顔を出し、苦手なネットワーキングパーティーもいくつか参加していた。
でも、ふとした寂しさがあった。
私が取りに行っている情報は、誰を幸せにするんだろう。誰を助けるんだろう。
2011年の東日本大震災をうけ、私の人生は大きく変わった。
発災から10日間後、私はご遺体安置所の交通整理のお手伝いに行った。異様な臭い、泣き叫ぶ人たち、自衛隊、赤十字、柱が壊れぶらんとした家たち。戦争かと思った。
泊まる場所がなく、その日は日帰りし、翌週にはカウンセラー協会の派遣で石巻渡波に入った。避難所に指定されていた体育館に行き、絶望の中にいる人たちの顔をみて立ちすくみ、仲間と足を揉んで回った。帰りのバスの中で、目が真っ赤に腫れるまで泣いた。
震災はたくさんの命をさらっていった。
自然の猛威、脅威。怒りのぶつけ場所がない。
私は、毎週末のように東北に通った。ある時は高速バス、ある時は友人たちと車を乗り合って。地元のお母さん、お父さんたちとの時間は、かけがえのないものだった。
笑顔を見せてくれると、その分、胸が締め付けられた。
仮設住宅のお母さんたちへマッサージをさせていただいた。ヘアメイクさんも同行し、半日でお母さんたちの疲れをとって綺麗になってもらう連続企画。お母さんたち元がいいから、本当に綺麗だった。
石巻の仮設住宅で、みんなでご飯を作った。地元のお母さんたちから教わることばかり。お漬物の漬け方を教えてもらった。
石巻復興祭。東京のみんなで想いをひとつにして開催した。地元の人が、たくさん来てくださった。よそ者の私たちに、「一緒にがんばりたい」と言ってくださった。
気仙沼高校、仙台コミュニケーションアート専門学校の学生さんたちと。「歌を歌っていると、前を向けます」と言ってくれた。
演劇で元気にしたい。宮本亜門さんの「うれしいプロジェクト」。地元のお母さんたちの「ミシンでお仕事プロジェクト」との共同開催。100人くらいの地元の方達と一緒にご飯を食べた。とても温かかった。
南三陸のお父さんたちと、わかめの収穫作業。生のわかめは最高だった!こんな幸せがあったなんて。冬は、わかめのしゃぶしゃぶが美味しいらしい。うん、絶対最高だ。
2013年、2014年とクリスマスに参加した、遠野まごころネットの「 100人サンタ」。
サンタやトナカイに扮して、仮設住宅を1件ずつノックして、プレゼントをお届けした。
震災のショックで声がでなくなり、「わせねでや」という歌を作詞したおばあちゃんを訪ねて、仲間たちと宮城県桂島へ。おばあちゃんに会えて、おばあちゃんが作詞した歌を収録したCDをお渡しできた。忘れがたくて、離れがたくて、なかなか帰れなかった。
現地では、同じような想いをもった人たちが数多く活動していた。
普段は仕事をし、金曜の夜中から東北へ向かう。言葉を交わさなくても、同じ仲間だと分かって心強かった。
そうした活動を続けていると、いつしか、貯金が底を尽きた。
東京の汐留で働くOLではあったけれど、上司がカップラーメンをたくさん持ってきてくれるほど、私は困窮してしまっていた。
ある日、通っていた仮設住宅で子供たちと遊んでいると、そこのお婆ちゃんから「あの子のお父さん、この前首を吊ってなくなったんよ」と聞いた。女の子は、とてもはしゃいでいて「遊ぼうよー!遊んでよ」と体に巻きついてくる。何度か通っていたので、その子のお父さんの顔も知っていた。同じような悲しい話を、至るところで耳にした。
その子が書いてくれた、私の似顔絵。
「もうこれ以上の命と希望を、奪わないで」
空を仰いで、そんな風に心の奥底から叫んだ。
それから私は、心理学と防災を必死で勉強した。
カウンセラーとは何か。
防災とは何か。
一体何の役に立つのか。
自分自身が、もっとも懐疑的だった。
世の中に溢れている防災グッズ、定期的に行われる避難訓練。つまりは心構えと想定であって、どんなアプローチであっても、「何かが起きれば、自分はこうする」という決まりごとがあることが重要なのだと思う。
「釜石の奇跡」としてうたわれる「津波てんでんこ」もそうだ。
海岸で大きな揺れを感じたときは、津波が来るから肉親にもかまわず、各自てんでんばらばらに一刻も早く高台に逃げて、自分の命を守れ。
昔の人は、知っていた。約束された安全なんてないことを。
だからこそ、自分の身の守り方は、私たち各々が見つけ出していくべきだと思う。
そして、自分が無事であったとき、周りの人をどうやって助けるかも考えておきたい。
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お隣さんが、、、
足の悪いお婆ちゃんだったら。
目の見えないお父さんだったら。
病院へ定期的に人工透析に通っている人だったら。
妊婦さんだったら。
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何かあったときに「そういえば!」と思い出せる存在、思い出してくれる存在があることで、助かる命は格段に増える。ちょっとお節介なくらいが、ちょうどいいのだ。
情報、テクノロジーは、人の生活を助けるものであると思う。
だから私は、その接点を探し、社会に提案していきたい。
「防災」という言葉のもっと深い部分で、繋がりあって生きていきたい。
誰かが困った時には、躊躇なくお互いに助け合える。
そんな世界を目指していきたい。
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